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プーアル茶の歴史

プーアル茶ってどんなお茶?

プーアル茶を紹介する前に中国茶に六種類のお茶があることを把握しましょう

中国茶は発酵の進行度合い及び製造方法によって大別して六種類に分けられ、発酵度の低い順に並べると

緑茶(無発酵、代表茶ーー西湖龍井)約八割の中国人が飲んでいます。もっともポピュラーなお茶である。

白茶(僅かな発酵、代表茶ーー白牡丹)高級品が多いです。

黄茶(酵素による酸化発酵を行う、代表茶ーー君山銀針)六大茶類の中でももっとも産量が少ないために貴重なお茶である。

青茶(20%〜80%幅広い発酵度合いでいろいろな味がある、代表茶ーー烏龍茶

紅茶(酸化発酵を最後まで行わせた茶、代表茶ーー祁門紅茶

黒茶(茶葉を加熱処理を行ってから、六大茶類の中で唯一微生物、主にコウジカビ菌による後発酵行わせた茶)、その黒茶の代表的なお茶はプーアル茶である、後発酵を行うために、成長し続け、ほかの中国茶にはない個性的な風味がありの一種の発酵食品です、とても不思議なお茶である。

プーアル茶の原産地ーー中国の雲南省

雲南省は中国の最南部に位置し、南部でベトナム、ラオスと国境を接し、北西部はチベット自治区と繋がる山々に囲まれていています。

チベット地方から流れ落ちて来るメコン川の東側と西側にある1500メートル以上の亜熱帯の大山岳地帯はプーアル茶の原産地になります。最南部のシーサンパンナ・タイ族自治洲でも栽培されています

雲南省は茶樹そのものの原産地と言われるが、プーアル茶はお茶のルーツのひとつとも言われます。雲南省は漢民族を含む15個ほど少数民族は生活しています。プーアル茶は少数民族ハニ族などの間で仙薬として古くから伝わっていった、紀元前から飲まれているとされる歴史がありお茶です

明の時代にはプーアル茶として広く知られるようになり、清の時代には献上品と指定され、朝廷でも愛飲され、特に清の乾隆帝は「夏は龍井、冬はプーアル茶を飲む」という言い伝えもあります。あのラストエンペラ愛新覚羅溥儀はとても愛飲したとも言われています

朝廷から民間へ、お茶の交易は広がり、漢民族のお茶と遊牧民族チベット族の馬と交換、このお茶と馬を交換する集積地の当時の地名は「プーアル府」ということから「プーアル茶」の名前で呼ばれるようになったと言われています。ちなみにこの交易道を茶馬古道と言います。現在のプーアル市は2007年4月18日思茅市から改名されました

プーアル茶の生茶と熟茶

プーアル茶は後発酵行わせたお茶です、この製茶方法によって、生茶と熟茶二つに分けられます

生茶(特に生産されてまた日が浅い茶葉)は極めて緑茶に近いです。お茶の色や味、香りも緑茶その物である、しかし年代を経るほど、ワインのような色、味、香りを変化して芳醇になって行きます

なぜこのような変化を起こるでしょうか?理由は使ってる原産地の原料と製茶方法が推測されてます

摘み取った茶葉(雲南省原産地喬木型の大葉種)を腐敗を防ぐために加熱処理をします(日本茶は蒸す、中国茶は釜で炒る)、この茶葉が持つ酵素が酸化するのを止める作業は完全に酵素を殺さないように微生物発酵を前提とします、手などで揉んで整形、発酵促進します。この後は天日乾燥します。天日乾燥した茶葉は原料となり、「晒青毛茶」(荒茶)という、晒青毛茶を袋に詰め蒸して押し固めた物はプーアル生茶になります。昔からの本来の伝統的プーア茶である。中国現地では「青餅」「生普」とも呼ばれます

そのまま年月をかけて、天然の麹菌の力を借りて茶葉が自然発酵を続けて熟成して行きます。熟成されるにつれて味が変わっていく訳です。芳醇になるまで長い長い年月が必要です。現地にはこういう言い伝えがあります、「爺ちゃんのプーアル茶が孫を売る」。昔は完全に手作業で優れている製茶技術がありませんので、お茶は芳醇になるまで待つしかありませんでした、お爺さんが作ったプーアル茶は孫の代になるとやっと美味しく飲み頃になって、商品として人に販売をできるという訳です

通常、3年ぐらい経つとその味の変化を初めて感じます、6年もすると味わいもだいぶ変わり熟成した味を感じることができるようになります、そして10年もたつと飲み頃になり、さらに10年20年かけておいしさのピークを迎えて行きます。まるでワインのような年月と共に変化していく楽しみがあることこそたくさんのプーアル茶のファンが生まれます、とうとう年代が古いプーアル茶は飲める骨董品と言われ、ビンテージになり、香港や台湾など高い値段で取引さています

もし生茶が伝統的なプーアル茶なら、この熟茶は現代風プーアル茶と言えるかも知れません。生茶に比べて、色が濃く、暗か色を呈す、中華街など街でよく見かける一般的販売されているプーアル茶はこれにあたる

長い長いプーアル茶の歴史の中で、人々が偶然にもこのプーアル生茶は長く置けば置くほどおいしく飲めることを気がつきました、五年物より十年物の方が更に芳醇になります、けど、10年5年は気が長い話、どうすれば短時間でこのまろやかさが再現できるのでしょうか?

プーアル茶の故郷雲南省は1938年前に原産の喬木型の大葉種を用いて紅茶か時間を要する自然発酵が任せるプーアル生茶しか製茶されておりません。しかし芳醇になったプーアル生茶のあの美味しさを忘れられずに、あの手この手を使って新しい製茶技術の開発に挑みました

時は1973年、当時のプーアル茶のトップメーカの職人さんは茶葉を積上げ高温多湿状態にして麹菌(味噌や日本酒作りの時と同じ菌)など微生物の力を借りて推積発酵という人工的な発酵方法を取り入れ、短時間で芳醇になったプーアル生茶のあのまろやかさを実現できました。この科学的加工技術により強制的に短期間で熟成する大量生産型の現代版プーアル茶は熟茶と言います。熟茶はいかに短時間で美味しい陳年の茶ができるかという製法であるので、インスタント的なプーアル生茶でも言えるでしょう、中国現地では「熟餅」、「熟普」という言い方もあります

プーアル茶好きになったら、飲めば飲むほど嵌ると言われます、コーヒーのようなワインのような深い味わいに慣れるとほかのお茶を飲むと物足りなくなるとも言われる、プーアル茶は人々を魅了し続ける魔法のようなお茶である。

プーアル茶のカタチ

緑茶や紅茶と違い、プーアル茶にはいくつかの形があります。
色々な形に加工されていったの理由は何でしょうか?
大昔、雲南省で作られたお茶は馬の背に乗せられ都や周辺地域へ運ばれていました。本来のバラバラの状態の茶葉は馬の背で揺すられてこすれ合わされて、物凄く崩れてしまいます、運送はとても大変で不便。何かよい方法ないでしょうか?容易に運んで行く且つ崩れを防ぐためにいつからお茶は固められるようになり、今日に至ります、今現在でも固形のままで流通しています。

プーアル茶のカタチーー【散茶(サンチャ)】

普通の緑茶や紅茶と同じようなバラバラの状態のお茶ですグラム売りで色々な等級があります。一番高いグレートは宮廷プーアル茶です。形があるプーアル茶は形を崩してから飲むのに比べて、散茶はそのまま急須などに入れて簡単にプーアル茶を楽しめます。

散茶

プーアル茶のカタチーー【餅茶(ビンチャ)】

散茶に蒸気を与えます、柔らかくなった茶葉が布で絞り固められた直径20cmほど、一枚357gの円盤状のお茶です。
今現在、プーアル茶なかで最もポピュラーな形で基本的なお茶である。製茶工程により生茶と熟茶があります。
七枚一組の物は「七子餅茶」と呼ばれます、七子は子たくさんを意味し縁起がいいと好まれています。雲南省に製茶工場を構え産地原産の茶葉を利用して作れた七子餅茶は「雲南七子餅茶」と言います。これは中国政府の統一買い付け、統一販売であった1960年代から使用されたと言われています。

散茶

プーアル茶のカタチーー【沱茶(トウチャ)】

散茶に蒸気を与えます、柔らかくなった茶葉を布で絞り固めて作られたプーアル茶です。

お椀のような形で真ん中に棒で搗いたへこみがあります。高い等級の茶葉を使用して1920年に作り始められたと言われています。1980年からヨーロッパに輸出されています。特にフランスでは根強い人気があります。

重さは基本的に100gがあります。近年、現代社会の生活リズムや女性の口にあうように小さくして、3gか5gぐらい「ミニ沱茶」も生産されるようになり、花やらハーブなどとアレンジしてさまざまな風味の「花草沱茶」もあります。

餅茶

プーアル茶のカタチーー【磚茶(ザンチャ)】

散茶に蒸気を与えます、柔らかくなった茶葉を木或いは金属の型を使用してブロック状に押し固められたプーアル茶です。

重さは100g〜250gといろいろあります

円盤型の餅茶とお椀型の沱茶に対してもっとしっかりと固まっている、崩して飲みたい時は専用の道具が必要になります。近年遊び心ともっとおしゃれにみせるために伝統的な形以外に、いろいろ面白い包装方法を開発されました、例えばチョコレート型、口紅型、ハート型などが見かけるようになりました。キュートで可愛い、女性に人気があります。

沱茶

プーアル茶の歴史

戦争や税収に翻されたプーアル茶の困難な道のり

一、唐、宋、明、清の時代のプーアル茶

お茶の歴史は神話や伝説から始まります。二千数百年前に、お茶は神話上の人物、神農氏が解毒薬として初めて飲んだと言われていました。

歴史上にプーアル茶という名のお茶は雲南省から産出しているとのことは、唐の時代に書かれた「蛮書」で初めて記録されていました。

三国時代に諸葛孔明は中国の西南部開発させるために、雲南省にプーアル茶の茶樹を植え始め、発展させたという伝説があり、今でも現地の人々は信じているようです。

お茶の貿易は昔から歴代の朝廷が重視されて来ました、

理由はお茶の貿易に得た収益は国のもっとも重要な税収源のひとつであることです、プーアル茶も例外ではありません。

唐の時代、周辺民族との政治安定関係を築くために、政略結婚と言われ、唐の皇女文成公主がチベットに嫁入りになりました、初めて茶がチベットに伝わったと言われています。酸素が薄い高原地帯という厳しい自然環境に生活して行く人々は健康維持のためにお茶は必要不可欠でした。
嫁入り道具としてチベットに持ち込んだお茶は後に茶馬互市という紛争時代に突入した時に重要な役割を果たしました。

宋の時代、政府は北方少数民族と長期に渡り戦争となり、大量の軍馬を必要とします、財源の足りない朝廷は茶馬市場を開設しました、お茶のおかげでチベットから軍馬を確保できました。プーアル茶は飲み物ではなく財源以外に、政治の道具にされました。

十三世紀初め、モンゴルという名の遊牧民の国が瞬く間に世界最大の大帝国になります、宋は元という名の朝廷になり、遊牧民によって馬の供給は十分で、茶馬交易は衰退してしまいました。プーアル茶は本来の用途に戻りました。

明の時代「普日」と呼ばれた地が普諸Xと改名され(プーアル茶の名はこの地名から来ています)、内外安定戦争もありませんので、お茶の交易を含む様々な経済活動がますます盛んになっていきました。1578年の「本草網目」という名の本には「士庶所用,皆普茶也,蒸而成団」との記載があり、普茶は皆に飲まれ蒸されて丸められているものだと記されています

さらにプーアル市を中心とした六本の放射線上に貿易用とする新しい道が生まれました、しだいにプーアル市からミャンマー、ベトナム、タイまで、ハイフォン港からヨーロッパまでへ続く道ができました。

清の時代、庶民から上流社会までプーアル茶文化は更なる発展を遂げ、宮廷に献茶として初めて献上され、1729年今まで交易の中心となった地は正式に「プーアル府」と呼ぶようになり。1825年に記された「普洱茶記」には「プーアル茶の味は濃く、都で飲むとさらに濃い」と熟成を連想させる記述も出て来ました。1897年イギリスやフランスがプーアル府に税関を設け、正式にヨーロッパ向けに輸出され、プーアル茶の輸出量が大幅に増加しました。

その後アヘン戦争など内外戦乱の時代へと入って行き、プーアル茶はまた繁栄と衰退を繰り返して行きました。

二、プーアル茶の現在

清の時代以降、民国から中華人民共和国へ、中国自身も大きな変化を迎えます。プーアル茶は引き続き作られて行きます。
1950年代から80年頃まで、お茶売買ではなく、中国政府は統一買い付け、統一販売するとの経済政策を取りました、
一部のプーアル茶は今まで通りに、チベットを始め日常生活に必要としている辺境の地に住む少数民族に送られていましたが、大部分は紅茶と緑茶を作らせて、香港経由で海外向けに輸出して来ました。伝統的なお茶作りが量産性が低く、もっと多くの外貨を得るために、1973年熟茶という製茶工程も開発されました。
80年代初めに人民公社が解体され、農村部が改革による自立を迫られ、国際情勢も大きく変わる、輸出もうまく行かず、いいお茶作っても売れない苦しい時代でした。

1990年代になると、もっと改革解放との経済政策による茶作りはだんだんと自由化されて行きます、今まで主に香港と台湾で楽しまれていたプーアル茶が中国本土でも評判を高めるようになってきました。プーアル茶ブームが始まりました、2000年以降、プーアル茶の人気はますます高まり、いくつもの新しい茶厰が創立されました、作れば作るほど茶葉は売れ、値段も年々上がっていきました、投機目的でついにプーアル茶バブルが到来しました。幸いこのバブルは長く続きませんでした、2009年価格を下がり通常通りに戻りました。プーアル茶のことが本当に好きな人々はしっかりとプーアル茶市場に残っています。

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